コラムン95:セザンヌ展に行ってきた&アール・ブリュット

おととい、知人に明日僕がセザンヌ展に行くことを話したことをきっかけに、
実はその知人も絵が好きでよく美術館に行くということが判明した
(この知人がまた素晴らしい人で、本当僕は周りの人々にに恵まれています。
それはひとえに自分の無さを補填してくれる神のなせる業かと・・・)。
で、そうなるとだんだん盛り上がってきて
僕「それでは00展行きましたか?」
知「はい」
僕「それでは@@展行きましたか?」
知「はい」
で、だんだんトリビア的になってきて
最後の隠し玉、まさか行っていないだろう、実態も知らないだろうとの僕の策
僕「アールブリュット展はまさか行ってないですよね、そもそも知ってますか、ファファファ」
知「あーーあれね、もちろん行きましたよ、ファファファ」
僕「・・・・・まさかフヒフヒフヒ・・・・」
このやり取りを横で見ていたもう一人がポカンとしつつ
知人の表情を見ていて「まさに、これぞドヤ顔してますよ」と。
で、せっかくだから今日の本題ではないのですが
アールブリュットについて少しだけ触れておきます、
こんな機会でないと書くこともないと思うので。
画家のジャン・デュビュッフェが1945年に考案した芸術カテゴリーで
正規の美術教育を受けていない人が
既存の芸術の法則にとらわれることなく作り出した絵画やオブジェのこと。
けっして断定的ではないが、精神を病んだ人たちによる芸術が多く、
治療に活用される傾向からも、結果的にそのようなジャンルの芸術に捕らえられることも多い。
まっ、単純にはいえないが彼らの作品は
いろいろな点で常軌を逸していて凄い、凄すぎるの一言に尽きる。
スイスにその本部はあるが、近年日本でもその動きが盛んになり、
一昨年には日本人のアーティストたちが本場で作品展を行い
その凄さに衝撃的な評価を、反応を受けたと。
参考までにそのURLを。
http://www.art-brut.jp/
そして私たちの間で同意見だったのが・・・
モーツアルトもゴッホもアインシュタインも、アーティストたちや偉人の多くが
なんらかの奇異な面を持っている、
言い換えるとだからこそあのような飛びぬけた作品、発想が思いつくのだと。
ただその奇異さはあくまでも「際」でとどまりそこから作品として表現されているんじゃないかと。
だが、対してこのアール・ブリュットのアーティストたちは、
あっち側へ飛び越していってしまっていて、
作品という範疇を飛び越してしまっていて、
そもそも作品制作という目的で作られていないので、
私たちには見る、鑑賞の対象としては辛過ぎるものだと。

と、毎度のことで前書きが長くなってしまったので、本題を簡単に。
セザンヌ展
http://cezanne.exhn.jp/
「今までにない規模の」ということで確かに規模は大きかった。
欲を言えば、規模の割には
静物画とサント・ヴィクトワール山では
もうひとつ視点、時間、的アプローチを堪能できる出品が多いと良いのになと。
と言いつつともかく「良かったです、はい」
で、記したいポイントを一つだけ、それは彼の肖像画に関して。
基本肖像画と言うのは本来依頼を受け、
その人の身分や肩書きを表す役割をするものであって、
加えてその人物の心理描写も描き出すもの。
言い方を変えると、
依頼主がいかにすばらしい肩書きだったか、人物だったかを
キャンバスの上に残すことを目的としていた。
だが
「セザンヌの描く肖像画は、人物の装飾はもちろん、
心理描写も廃して周囲との造形的調和を極めた作品にした」(解説より)、
とあった、そのとおりだった。

今日の一言:
肩書きとかが好きではない僕には
セザンヌの描く肖像画は好きだ。

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