コラムン73:ルビーの指輪、その後
3月17日の朝日新聞土曜版、歌の旅人で
寺尾聡の「ルビーの指輪」が取り上げられていた。
この土曜特集記事は読まれている方も多いとおもうが、
毎回名曲を一曲とりあげ、
関係者に取材しバックストーリーにまで言及する
紙面2ページにわたる特集だ。
今までにもここには
僕がお世話になった方々が多く登場されている。
そして今回も当時師と仰いでいた方や先輩が登場している。
で、
今回のコラムンでは
この記事では、当然といえば当然、触れられてはいないが
ルビーの指輪、その後の話だ。
ルビーの指輪の入っている大ヒットアルバム「リフレクションズ」に続き
ニューアルバム「アトモスフィアー」が制作されることになった。
メーカーの制作担当は,
色々と事情があり、
・・・たぶん・・・
今回は一番の若いのを充てておこうとの部署の判断で
僕が担当することになった。
「えっえっえっ???、ぼぼぼ僕ですかヵかかか?」
当時25歳ぐらいでまだまだ右も左もわからんぐらいで
まあ、それはそれは大変な経験だったのですが
・・・因みに十二指腸潰瘍になりました、本当・・・
どんだけ大変だったかと、当時
同じく、
色々と事情があり、
もう一人の若手である同僚が
あるメジャーバンドを担当していた。
彼が僕のいるそのスタジオに用事で訪ねてきた。
翌日、彼曰く
「自分の担当するバンドのスタジオには雲が立ち込めて辛いが
君のいるスタジオは更に濃い暗雲が立ち込めている」と言った、本当。
まあ、でも後で思うと良い経験でした。
別に僕が何を出来たわけでもなく
前作「リフレクションズ」を担当された名プロデューサーにより築かれた
スタッフ、アイデアでそのまま作られただけなのだが、
その中でも後に財産となる良い出会いがたくさんあった。
前作から続いて作詞の大半を担当した有川正沙子さんとは
これがご縁で次に担当することになる舘ひろしさん
・・・これも逆にある事情で途中で僕は降板することになるが・・・
そのアルバムではほとんどの作詞をお願いできたし。
そうそう、アルバムに先立つシングル「泣かないで」では
僕が勝手に前々から今野雄二さんと仕事がしたくて詩をお願いした。
ご本人曰く作詞には馴れていないとのことだったが無理にお願いし、
補作を宮原芽映さんに担当してもらうことになった。
なのでアルバムの他の曲では一人で作詞をと、
他の方を探してて、同じ石原軍団系ならと、安直に
・・・そう今でもそうだが僕の行動は安直です・・・
有川さんを思い出したんだった。
それにしても
良い経験をたくさんさせてもらえた環境
師、上司、先輩、同僚に恵まれていた。
朝日の記事の最後では
東芝EMI第二制作部、部署の30人が
その後レコード会社「ファンハウス」を興し
28年を経て「ドリーミュージック」へと続く旨が記されている。
実はこのドリーミュージックを興すときにも
自分として参加できた。
改めて感慨深いものがある。
今日の一言:
記事では
『部署の30人がその後レコード会社「ファンハウス」を興し』
とあるがこれは間違い。
29人。だって一番の若手の僕の社員番号が29だから。
PS
はてさて
25日(日)ミュージック・エア
オリジナルライブは
何が楽しくて日本のプログレ・・・
難波弘之と五十嵐”Angie”久勝が組んだスーパーユニット、
Nuovo Immigrato(ヌーヴォ・イミグラート)
ですねん。
http://www.musicair.co.jp/recommend/?id=522
宣言:
コラムン、どうにか臨時休業もなく
73号まできました、
100号は書きます。
で、それをめどに改変を予定しております。
3月17日の朝日新聞土曜版、歌の旅人で
寺尾聡の「ルビーの指輪」が取り上げられていた。
この土曜特集記事は読まれている方も多いとおもうが、
毎回名曲を一曲とりあげ、
関係者に取材しバックストーリーにまで言及する
紙面2ページにわたる特集だ。
今までにもここには
僕がお世話になった方々が多く登場されている。
そして今回も当時師と仰いでいた方や先輩が登場している。
で、
今回のコラムンでは
この記事では、当然といえば当然、触れられてはいないが
ルビーの指輪、その後の話だ。
ルビーの指輪の入っている大ヒットアルバム「リフレクションズ」に続き
ニューアルバム「アトモスフィアー」が制作されることになった。
メーカーの制作担当は,
色々と事情があり、
・・・たぶん・・・
今回は一番の若いのを充てておこうとの部署の判断で
僕が担当することになった。
「えっえっえっ???、ぼぼぼ僕ですかヵかかか?」
当時25歳ぐらいでまだまだ右も左もわからんぐらいで
まあ、それはそれは大変な経験だったのですが
・・・因みに十二指腸潰瘍になりました、本当・・・
どんだけ大変だったかと、当時
同じく、
色々と事情があり、
もう一人の若手である同僚が
あるメジャーバンドを担当していた。
彼が僕のいるそのスタジオに用事で訪ねてきた。
翌日、彼曰く
「自分の担当するバンドのスタジオには雲が立ち込めて辛いが
君のいるスタジオは更に濃い暗雲が立ち込めている」と言った、本当。
まあ、でも後で思うと良い経験でした。
別に僕が何を出来たわけでもなく
前作「リフレクションズ」を担当された名プロデューサーにより築かれた
スタッフ、アイデアでそのまま作られただけなのだが、
その中でも後に財産となる良い出会いがたくさんあった。
前作から続いて作詞の大半を担当した有川正沙子さんとは
これがご縁で次に担当することになる舘ひろしさん
・・・これも逆にある事情で途中で僕は降板することになるが・・・
そのアルバムではほとんどの作詞をお願いできたし。
そうそう、アルバムに先立つシングル「泣かないで」では
僕が勝手に前々から今野雄二さんと仕事がしたくて詩をお願いした。
ご本人曰く作詞には馴れていないとのことだったが無理にお願いし、
補作を宮原芽映さんに担当してもらうことになった。
なのでアルバムの他の曲では一人で作詞をと、
他の方を探してて、同じ石原軍団系ならと、安直に
・・・そう今でもそうだが僕の行動は安直です・・・
有川さんを思い出したんだった。
それにしても
良い経験をたくさんさせてもらえた環境
師、上司、先輩、同僚に恵まれていた。
朝日の記事の最後では
東芝EMI第二制作部、部署の30人が
その後レコード会社「ファンハウス」を興し
28年を経て「ドリーミュージック」へと続く旨が記されている。
実はこのドリーミュージックを興すときにも
自分として参加できた。
改めて感慨深いものがある。
今日の一言:
記事では
『部署の30人がその後レコード会社「ファンハウス」を興し』
とあるがこれは間違い。
29人。だって一番の若手の僕の社員番号が29だから。
PS
はてさて
25日(日)ミュージック・エア
オリジナルライブは
何が楽しくて日本のプログレ・・・
難波弘之と五十嵐”Angie”久勝が組んだスーパーユニット、
Nuovo Immigrato(ヌーヴォ・イミグラート)
ですねん。
http://www.musicair.co.jp/recommend/?id=522
宣言:
コラムン、どうにか臨時休業もなく
73号まできました、
100号は書きます。
で、それをめどに改変を予定しております。